昭和42年06月07日 朝の御理解
信心が分かって行くと云う事は、どう言う様な事か。信心の事が詳しゅうなって行くというのとは違うと思うですね。信心の事が詳しゅうなって行くというのは、少し例えば、お道の信心を研究すると。言うならまぁ神学者何か、金光教の信心を頂いておる者よりも詳しいんです。金光教の信心の素晴らしさも、素晴らしいと言う事が分かるだけなら勉強すれば詳しゅうなるんです。
所がその詳しゅう信心が、いわゆる詳しいからお道の信心が詳しいから信心が出来ておるというのじゃないのです。信心が分かるという事。信心が出来出来て来ると云う事はです私どう言う様な事かと言うと。愈々、愈々神様のおかげを頂かなければ立ち行かん。という事がいよいよ分かるという事だと思うですね。神様のおかげを頂かなければ、立ち行かんのだと言う事です。
いわゆる、自分は何の力もないのだと。いよいよ自分の、無力さかげんというものを、「障子一重がままならぬ人の身ぞ」と仰る。もう障子一重が、本当にままならぬ私共であるという事。ですから、すがらなければおられんのであり、ですからいよいよ、精進させて頂かなければならんのであり、その精進とても、神様のおかげを頂かなければ出来る事じゃないんだと、云う事が分かる事だと思うんです。
私はこういう御用を頂いておる。私はこうさせて貰よる。私は毎日こうやってお参りしよると。という間はそのまあ、本当に信心が分かる。本当に参らせて頂きよるのであり、御用をお許し頂いておるのであり、お許しを頂かなければ出来る事じゃないのであるという事。神様にお使い回しを頂かなければ、動けない私であるという事をです、本当に私は自覚出来る、その自覚が深うなって行くと云う事がですね。
信心が愈々深うなって行くと云う事だと。私はそう思うんですね。親鸞上人様はそこん所を「悪人正機」ですかね。悪い人正しい機と機械の機と書いて。自分は善人だと。自分な悪か事はいっちょんしよらんのだと、自分がよかつのごと思うておる所には人は助からないと言うとるです。自分は善人の様に思うておる人は助からないてもうね。「悪人正機」だからこそ、矢張り信心を段々深めて行かれれば行かれる程。
いわゆる日本一の大悪人は我だとこう親鸞は言っておられるのです。自分よりも詰らん者はないと言っておられるのです。ね。我こそ悪人。とにかく自分の中にあるものを見極めた時にです、自分の様な悪人があるかと。自分の様な詰らない者があるだろうかと、そう言う者でなからならければ、真実の助かりはないという事を、親鸞も言うておられます。どうでしょうか皆さん。家庭の中でもです、社会でもです。
本当に私のごたる詰らんもんなないと。自分のごたる詰らんもんなないと言う所からです、私はいよいよ実意丁寧神信心に、ならなければおられんのであり、実意な言わば姿勢にならなければおられんのである。どうでしょうか皆さん。本当にそこんところがですね、ぎりぎりの自分と言う物が分からなければです、いわゆる「障子一重がままならぬ人の身」そこんところを私は何時も、自分を空しゅうすると。
自分が一遍無くなってしまうという風に申します。自分が無くなってしまいませんとですね、自分にまだあるように思う、力が。自分に知恵がある様に思う。自分に力量がある様に思うね。そこに自分を空しゅうする修行が必要に成って来るのですよ。昨夜、総代会、壮年会、それから菊栄会、美登里会ですか。まぁ主だった会の方達が皆集まりまして丁度1時半頃まで熱心に、是からの合楽。
その合楽に教会にかけられた神の願いね。こうして合楽教会がここに誕生した。その合楽教会、神様の悲願がこうやってここに成就しつつある。神様の願いが、合楽教会に掛けられておるその、掛けられておると云う事をお互いが自覚して、そして大きく合楽教会の為ではない。本当にまぁ大きくいうならばです、教団の為であり、大きく言うならば世界総人類の助かりの事の為に、貢献しよう。
尽くして行こうと。と言う様な言わば会なのです。それが段々、とにかく本当に実動その実動隊としてのですね働き。その本当の働きが出来る事の為に、もう出来るだけ若い方達。いくら若いというても、先ず本気でおかげを頂こう、やらせて頂こうという、人達でなからなければ出来るこっちゃ御座いませんからそういう人達を、で一つの組織を作って、今後の合楽のことはもう言うに及ばず。
まぁ言うならば、連合会なら連合会にも当たっていこう、教団の何事にも当たって行こうと。と言う様な話し合いが熱心になされました。ならですから言うならば、なら久富さんでも永瀬さんでも、夕べその最後まで残ってその事の検討なさいました。けどもやっぱり一番早う参って来ておられるのは永瀬さんであり、久富さんであるという事です。いわゆる私がまぁここに座る前に、もう参って見えとられました。
ですからそう言う様なもう精進とてもですね、実は神様のお許しを頂き、おかげを頂かなければ出来る事じゃないと云う事なんですよ。おそらく帰られたのがもう2時過ぎでしょう。休まれてのはもう2時、本当に2時過ぎになられたでしょう。それにはもう遅くとも、なら4時には起きなさらなければ出来ないでしょう。いうなら2時間しか休んでおられんのです。したら永瀬格一が参って来とる。
久富勇が参って来ておるのじゃない。矢張りお参りさせて、参らせて頂いておるのであると云う事なんです。何にも出来ない私、言う様にせめてこの位な修行位させて貰わなければ出来んという一生懸命の願いがです、その願いが神様が聞き届けて下さっとる事だけの事なんです。聞き届けてられてなかったら、お参りが出来ん。そして後に言い訳としては、夕べが遅かったけんもう今朝ご無礼しました、とでもよかとです。
だから私共のですねそういう一生懸命の願いがですね、目を覚まそうというても覚まされん。起きようともいうても起きられん。神様のおかげを頂かなければ出来る事じゃないという事御用でもそうなんです。どうぞそういう御用につこうて下さい使うて下さいという願い。けども神様使うて下さらなかったら何も出来はしません。それを強引に使うて頂いておるのに私がしたと言う所にです、もうその人の助かりはないのです。
神様のおかげを頂かなければ出来る事じゃないと云う事。今朝の御祈念にも、私がここ、もう二日ですかね、昨日。昨日の晩からですけれども、私の是はまぁ私の本当に、私自身がそう思ってるんです。もう私位な者の信心でですね、私位な者がお取り次いでですね、人が助かるとはどげん思うたっちゃ思われんのですよ。本当に。私位な者の信心で、私位な力で、私位な者のお取次ぎじゃ人が助かられるとは思われない。
ですから例えばその皆さんも感じられる様に、ここじゃ御霊様への御祈念が非常に長いです、どこでよりも長い。それは私が、私共の手続きである所の初代、又は先代。ここで申しますなら、初代の荒巻弓次郎先生。又その上の石橋松次郎先生。又その上の福岡、吉木栄蔵先生。又その上の桂松平先生と言う様にです、私共の手続きに続きに継ながっておられる所の、そういう先生方のです。
そして四神金光様、教祖様と言う様にです、そういうお徳を受けられた先生方のお取次ぎを頂かなければ、出来る事ではないという。是はもう私の実感なんです。ですから、その言わば御霊様方に、一生懸命やっぱその事を願わなければおられんのです。何故って私で出来る筈はないと思っておるから。そこで私は昨日の晩からです、このお届張を神様にお届けすると同時に霊神様へにも、お供えさせて頂いて。
もうその実感を形に現してお縋りさせて頂こうという気にならせて頂いた。今朝も私が是を持って立つ時に、続け様に大きなお勇みが二つ。それから又今日は丁度初代の荒巻先生、石橋先生、吉木先生、桂先生。その四人の御霊様達が、もう一人ひとり私の願いに答えて下さった、という感じで御座いましたですね。皆さんあのお勇みを何と感じられるですか、そうなんですよね。
今私が「悪人正機」と自分が、自分で参りよるとじゃない。参らせて頂きよるんじゃと。私に出来る事はないという度にあぁして、それこそあのお勇みが続いておりますでしょうが。自分の家の中でもです信心しよるけん自分が一番偉か、自分が一番よかつのごたる思い方の中じゃもうその人は助からんです。私があぁたこうして参りよるけんであんたどんが助かりよるばいと言った様な事じゃ助からんてね。
本当に私が一番詰らんと云う事を言うだけじゃいかん。本当に自分が分からなければね信心が詳しゅうなるというのじゃなく、信心が本当に分かると云う事は愈々自分が無力であると云う事が分かる。自分が本当に悪人であると云う事が、もう誰よりも自分が悪いんだという悪人という自覚が出来なければです、ね、そこに悪人だけしか助からんと云う事に成って来るのです。もう善人は助からん、え。
いわゆる善人は助からんと言ったらおかしいですけれどね。悪人が自覚にたった人こそが助かるんだとこう言う訳なんです。自分が善人だと思うておる人に助かりはないと言う事なんです。お互い助かりたいのです。為にはいよいよ信心を深く、広く分からせて貰わなきゃいけんのです。信心が分かると云う事は、いよいよ私が無力であると云う事が分かることなんです。
だから信心が分かれば分かる程、辞を低うするそういう、信心の姿勢と言う物が自ずと備わって来るのです。「信心が分かれば分かるほど、辞を低うしなければおられない。」いわゆる偉そうな事だん言われない事になって来るんですよ。本当に助かりたいと、願うならいよいよ自分自身を見極めさせて貰、自分自身を分からせて貰。本当に神様がそうぞ、そこぞと仰っておられる事が皆さん分かるでしょうが。
御理解頂きながら。本当に自分を見きわめなければ駄目ですよ。本当に自分と言うものを見極めさせて頂いてです、もう本当に自分、自分に何が出来るかと、何も出来ないのだと。神様のおかげを頂かなけえれば出来る事じゃないということ。しかも私の様な悪人なのです。それでも助けてもらいたいのです。ね、そこから私共は本当の助かりというものがあるのです。ね。
そこん所を親鸞上人は「悪人正機」という言葉を持って言うておられると。教祖の神様は「障子一重がままならぬ人の身ぞ」と言うておられる。又は無学の百姓と言うておられると。又は凡夫我という自覚に立っておられるという事。私共そこん所の自覚が出来てこそ初めて信心が解って行きよると云う事が言えるでしょう。そこで信心がそこん所を深く分かっていけば行く程にです、愈々心からの低姿勢とでも申しましょうか。
本当に私の様な者がとしかもこの様なおかげを頂いてという事になる。けれどもいわゆる、あの私共がですんなら自分のごたる詰らんもんなおらんというて、ちゃんと寝とるだけでは、と言う様な事ではないという事。それは分かっとらん証拠なのです。そういう何も出来ない私であり、悪人の私であると云う事が分かれば分かる程です、せめてせめてというのが朝参りにでもなって来る姿なんです。
それでせめて朝参りなっとさせて貰わにゃと、こういう事なのです。せめて御用なっとんさせてもらな訳ればという事なのです。そしてよくよく分からせて頂く事はその御用とても、朝参りとても、神様に許されなければ出来る事じゃない、神様のおかげを頂かなければ出来る事じゃないと云う事になって来るのですよね。そこんところを一つ頂いて行かなきゃならんと思うですね。